December 25, 2004

『明暗』夏目漱石。

年末年始の時間のあるときは夏目漱石とか谷崎の『細雪』とかヘミングウェイの『海流の中の島々』等の長編を読むことが多いのだけど近年忙しくなかなかそうもいかない。『海流〜』なんてどうも年末年始に読む作品じゃないなあとやっと最近になって気づいたのだけどそうはいいながらもう何度読んだかしれない。因みにこれは初夏というか、春の終わりの頃に読むのが相応しいんじゃないだろうか。
ドストエフスキーの『悪霊』も再読回数が多いけど正月に読むようなシロモノではない。こたつに入ってみかんの皮むきながら読めるようなものではない。いや、読めない訳じゃないが、年明け早々からヘヴィな気分で後ろ手にうつむき加減に歩くようなことはしたくない。
やはりこの時季は、読むならまったりと読みたいものだし。

たまにはまだ触れたことのない作家のものでも、と思うが、オッサンになってゆくにつれハズレのリスクは負いたくない気持ちは強くなる。でも人間、新鮮なものを味わいたいと思う気持ちも幾つになっても少しはあるだろう(ハズしたときの落胆と虚ろな気分たるやひどいものがあるのだが)。この年末年始はなんとか、新潮社クレストブックスシリーズあたりから何か一冊をとは思っている。

で、漱石の『明暗』。

大筋は主人公津田とその妻お延を中心に愛と血縁のしがらみと金というファクターを巡って展開され、開き直った卑屈な思想家という設定の津田の友人小林という強烈なスパイスがエッセンスになろうかというところだ(この小説は漱石の死により未完に終わっているのでこの小林について完結していないのは一般読者として残念で仕方ない)。
現代に置き換えてみれば血縁についてはまあいつの時代でもそれぞれの形があるようで、ひとつの基準のもとに一概にどうこう言えるようなものではない。金については『道草』といい、例によって(って、漱石の作品においてってこと)血縁絡みを含めて業の深い展開(無心とか)があり、それでも最近の殺伐とした世情に比べればまだ苦笑するだけで済む。少なくとも脅迫とか恫喝とか、何とか詐欺に代表されるような平身低頭の狡猾極まりない世界はまだここには表現されていない。
血縁関係を含めて、男と女の関係において漱石は辛辣だ。そして漱石が表現する男が女に対しての、また女が男に対しての自尊心からくる思惟と発言には、心の底からの優しさはどこにもない。
例えば津田とその妹お秀とのエキセントリックな会話。
 
   「お前に人格という言葉の意味が解るか。高が女学校を卒業した位で、そんな言葉を己の前で
    人並みに使うのからして不都合だ」
   「私は言葉に重きを置いていやしません。事実を問題にしているのです」
   「事実とは何だ。己の頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕まえられると
    思うのか。馬鹿め」

こんな案配だ。
ちなみに現代的な会話になればこんな感じか。

   「お前にジンカクっちゅう言葉のイミ、分かってるんか? ああ? そのへんの女子校
    卒業したぐらいで、そういう言葉を人並みに使えるタマだっつうんかいお前は、....けっ」
   「ウチは言葉がどうこう言うてるんちゃう! 事実を問題にしてるんや!」
   「事実ぅ? 俺の頭ン中にある事実いうもんを、お前のようなどタマ悪い女に理解でき
    るっつうかってんねん。....このボケが」

まあ、男でもこんな男に近づきたくはない。体裁と自尊心でぐるぐるになっていることさえ気づかず、言いたい放題、詮索し放題である。しかしリアルなのだ。この時代でも、いるよなあこんなヤツ、と溜息をついてしまうのだ。
極めつけは、お延が津田の結婚前の女の影に気付き始めていたたまれずそれを追求するシーン。このお延も何というか、金と愛に関しては見栄とは知らずに見栄をはり詮索好きなしたたか者。直截に問いただすことはせず、何ら証拠もないのに憶測からくる確信だけで鎌をかける。それに相手がかかればいいが、かかったかに思えても結果的に大抵ハズしてしまう。そしてあとは涙を零すだけ。
夫津田も妻がどこまで事実を知っているのか知らず、冷や汗かきかきくぐり抜ける。くぐり抜けて、彼は妻を慰める。

   彼はお延を慰めにかかった。彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。沈着な態度を
   外部側に有っている彼は、又臨機に自分を自分なりに順応させていく巧者も心得ていた。
   彼の努力は果たして空しくなかった。(中略)
   波瀾の収まると共に、津田は悟った。
  「畢竟女は慰撫し易いものである」

そう、「女は扱いやすいものだ」と、澱みなく漱石は書いてゆく。
男にそう思われて喜ぶ女性も少しはいるのかもしれないが、真面目な局面でこんなこと言ったら殺されることは間違いないし、ちゃんと分かっている女性だったらこういう男は自分にはなんの利益ももたらさないのだと相手にせずシカトするばかりだろう。
しかしお延には自分の客観的な器量においてコンプレックスがある。漱石はそこに彼女の「愛」の根本を置く。
コンプレックスの裏返しとして、愛についての自分なりのこだわりに執着する。歪んだ自尊心と見栄には気づかないが、「愛」の理念について盲目的に自分の思いを信じて姪っ子に諭し、義妹に議論をふっかけ、夫婦の関係を越えた部分で津田にすべてを言外において要求する。そんな女を現代では、浅薄だといえば、そうともいえるだろう。漱石は躊躇することなく、言葉とは裏腹の本当の部分を容赦なく剥き出しにしてみせる。その技量たるや、どれだけ現代作家になじんでいても、もう、頭を垂れるしかない。

もしこの作品が完結していたなら、漱石は津田と、お延と結婚する前に付き合っていた女清子との姦通を描いていたはずだ。そしてお延はそれを知って、身を投げただろう。それを結末にしたはずだ。


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この記事へのコメント
トラックバック、ありがとうございました。
・・・と言いつつ、この記事の後半部分を読むのは、自分が「明暗」を読み終えあるまで、取っておくことにしますね(笑) 今のペースだと、来年の2月ぐらいに読むことになりそうです。
Posted by yuji at December 26, 2004 00:02