March 14, 2005

『KAZAHANA』勅使河原三郎。

録画する直前、チャンネルを変えたらN響アワーでジョアン・ピリス、モーツァルトのピアノコンチェルト17番、最後のフレーズ。
激しく落胆。
新聞をとっていないと、こういうことも多い。これからはこまめにネットの番組表をチェックしよう。で、調べてみたところ、20日に再放送あり。
助かり。

勅使河原三郎の作品について何か書くことはムズカシイ。何をいっても的はずれになってしまいそうな気がする。
17年余り前の『青い隕石』に、当時はそのまま痛々しい生への衝動めいたものを感じたものだったけど、今から思えばまったく逆だったのかもしれない。死への憧憬と生への拒絶反応から来る爆ぜるような胸騒ぎ、というものではなかったか。だとしてもそういうことは勅使河原にとっては二次的な問題以下、なのだ。
自分の肉体への対峙と追求における関係性、それ自体が勅使河原にとってのダンスだ。
あるいはそれも見当違いもええとこ、なのかもしれない。舞踏において何かを書けるほど僕は言葉を持たない。


驚異的なスタミナで異形の姿勢をとりつつも指先には細心の神経が行き届き、宙に浮かぶ鍵盤を叩くように蠢いている。そのうちにダンサーたちは相矛盾する方向へと身体を伸張させ、フラクタル曲線を思わせる増殖を見せる。
ジャンプすることもなく、地(ステージ)に着きながらにして、ステップに伴う揺らぐ上体の大きな旋回は、重力からの解放を思わせる動きでしなやかで、その連綿とした流れは緻密に計算され、ダンサーたちの見事な連携によって一瞬に収束する。
あたりまえのことだが、体幹部の強靱さには絶句させられる。照明が刻む脊柱起立筋の深く鋭い陰影には息を呑む。自分の身体に対峙し続けた結果だ。

美しくないわけがない。


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