June 21, 2004

『存在の耐えがたきサルサ』小山鉄郎編。

『五分後の世界』についての村上龍と小山との対談から、覚え書き的に。小山は共同通信の編集員。

シンプルな人間関係というのは個人でリスクとかリスポンシビリティを負わなければいけないということですからね。「すいません」と言っておけば、ミスしても何となくみんなが許してくれるという人間関係ではない。謝らなかったら「なんだこいつ」と思われるんだけど、次にピタッとやるとオーケーになる。そのほうがすがすがしくていいじゃないですか。でも結局ね、個人の能力に注目しないから、個人と個人をつなぐ大小さまざまな階層の共同体がうまくいくことが大前提になっているんです。

本当は「今日も生きのびた」というだけで人間は勝利なのに、この国ではそのほかにいろいろ要るんですよ、生きがいとか恋愛とか、老後の保障とかね。それも何かおかしいと思うんです。生理的にそういうのが嫌いだったんです。「じゃ、おまえは戦場に行くか」と言われると、行きたくないですよ。別に戦場に行かなくても、何かから生還してきたという思いを持てるということが一番快楽なんじゃないかなと思って。
能は生で見たことはないんです。ただイヤだなあといつも思ってて。たぶんすごくうまい人のを見ると、それなりにいいと思うんでしょうけどね。能は嫌いだった。それよりもピョンピョンはねるほうがいいと思って。なるべく地面とか重力とかから自由になることで解放感を得るほうが自然なんじゃないかな。足が高く上がるとかね。マイケル・ジョーダンなんかがフリースローラインのこっち側からピューッと飛んでダンクを決めると子供でもわかるものね、だれだってわかるでしょう、あれはすごい、カッコイイ、きれいだとかいうのは。能はむずかしいんじゃないですか。古い言葉だけど、共同幻想が不可欠なんでしょうね、能を見る場合には。

キューバなんかは、経済封鎖で国が消滅するかもしれない、世界の孤児になるかもしれないという状態が続いていたわけですよね、旧ソ連から離れているわけだから。そうするとね、明日も生きようという勇気を与えてくれるものに一所懸命になるんですよ。それでみんなが音楽を大事にするし、音楽家は尊敬されて、だから才能のある人間は音楽家になろうと思うし、音楽を広めているんですよね。それは絶対に必要なものだからなんです。みんなが必要とするから、それは美しくて強いものにならなきゃいけないし聞きやすいものでなきゃいけないわけね。日本の歌謡曲だって、昔は妙な力があったんですよ、それが本当に必要だった時代の歌って、美空ひばりに代表されるような磁力みたいなものがあるじゃないですか。精神性の高さは危機感がないと絶対に生じないし、それは優越感で簡単に消えちゃうものなんですよね。ある共同体に優越感があれば、そこで何か表現する必要って基本的にないですから。

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