August 06, 2005

藤原伊織。

気骨のある、一本筋の通った主人公たちはその裏返しに少年時代に胸に刻み込んだなんらかの傷と、弱さを持つ。甘さと言い換えてもいいけど、それはいくつもの困難をくぐり抜けてきたものが持つ「余裕」が垣間見せる類の甘さだ。そこには清々しささえ漂う。
このあたりの藤原の筆力は毎度のことながら、凄い。

『テロリストのパラソル』を読んだ読者なら心臓を鷲掴みにされるような感慨を覚えるだろう。きちんとキャベツとソーセージをバターで炒めたカレー味のホットドッグが、無性に食べたくなった。もちろん夏の芝の上で、ではない。うらぶれた、無口なバーテンダーがいるバーで、だ(笑)

藤原が癌を克服し、この『シリウスの道』をさらに凌駕する作品を発表できることを、切に願う。  

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July 29, 2005

奥山貴宏、疾走感。

『バニシング・ポイント』
ネット上でこの作品が紹介されていたのを1度見たきりで、特に印象に残るようなものはなかったのだけど、読書傾向がかなり偏っている(というかワケわからん)ウチの相方が珍しく読みたいと訴えていたものだから買って読んでみることにした。そんな経緯でもなかったら文庫本になっても読むことのないタイプの一冊かなと思っていたのだけど。

全体を通してサブカル的なテイストが淀みなく流れてスノビッシュな匂いがぷんぷんしているとはいえ、『31歳ガン漂流』(もちろん未読)という作品を先に出すくらい自分の病気のことを徹底して調べて正面から向き合う様には刹那的な美しささえ感じられる。余命2年と宣告されて、その2年をどう生きるか考え抜き、それを実践しつつ病気とつき合っていく者の気概といったものが基調低音になっている。

が、はっきり言ってしまえば、奥山は表現者として「死にゆく者の特権」を鮮やかなまでに行使しているともいえる。近いうちに死ぬと宣告された者だけが持つ疾走感とそのめくるめく表現がここにはある。それはたまたま先月に再読した高野悦子(鉄道自殺)の『二十歳の原点』にも通じているように思う。「クラブ、ドラッグ、バイク」と「ジャズ、学生運動、ワンゲル」という生きた時代の違いはあるとはいえ、その表層を二人とも思うがままに滑降していったことは確かだ。ある覚悟を決めて、時代の表層を駆け抜けたのだ。

あたりまえだけど、死を覚悟できた者の表現は死を覚悟した者にしかできない。
その部分で軽い嫉妬めいたものを覚えてしまう。  
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July 01, 2005

読書の時間。

小遣いの関係で読みたい本をなかなか買えない。
愚痴ではない。
ただ実際のところを淡々と書くまでである。

といいつつ読む時間はほとんどないというのが現実。再読しようと引っ張り出してきては読みかけ、その辺に放り出しっぱなしの文庫本が散乱している。会社のデスクの引き出しにもごっそり。

『十八歳、海へ』中上健次
『チューイングガム』山田詠美
『二十歳の原点』高野悦子
『恋は未知なもの』村上龍
『悪霊』ドストエフスキー
『アンジェラの灰』フランク・マコート
『東京フライング・キッズ』内田樹vs平川克美
『リバース・エッジ』岡崎京子

とかさ。
節操がないな....
『二十歳の原点』なんて、ネットを放浪している際にふと見かけて、ああ、また読んでみようかなと本棚を探したのだけど見つからず、なんか久し振りにざわざわした感じが胸にくすぶっていたので結局旭屋書店で20何年か振りで再購入。まあ、ほんと懐かしい。これって、高校生の頃だったか、NHK-FMの番組で烏丸せつこが印象深く紹介していたのがきっかけで読んだのだったよな。

っつうか、体力落ちてきただけに集中力がなくなったなとしんみり感じているここ数ヶ月。
ランニングと水泳と読書と映画と、サッカー観戦と。
それだけの身分になりたいなー。  
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May 19, 2005

小川、村上、フィッシュアンドチップス。

日曜夕方、自転車でぷらーっと梅田に出、新地に停めて、四つ橋筋を歩き、堂島アバンザのジュンク堂書店に入る。
いつ本屋に入っても買いたいハードカバーが多すぎるのは悩ましいが、小遣いが追いつくはずもない。仕方がないので筑摩書房の新書で出ていた『世にも美しい数学入門』というのを買う。新潮社から出ている小川洋子の『博士の愛した数式』は文庫本になるのを待つつもりなのだけど、その小川が『博士の〜』を書くために取材した数学者との対談集。
しかし筑摩は良い紙を使っていますね。新書にはちょっと堅いんじゃないかとも思うのですけど。

ジュンク堂を出てチャリを停めた新地に戻り、近くのオープンテラスになっているバーでビールを引っかける。20時30分までは300円。キャッシュオンデリバリーで案の定というか、外国の方が多そうなとこ。ちょっとお腹も空いてきたのでなんか頼もうと思ったのだけどめちゃくちゃ高い。ハンバーガーにサイドディッシュが2つついて1,200円。んー、どうなんだろう、やっぱり外国人多いからかなとフィッシュアンドチップスだけ頼んだのですが、量、多いね(笑)ウチの相方は喜々としてましたが。

で、小川の本についての覚書は後日にして、もう一つ、文春文庫から村上龍の『空港にて』という短編集が出ていたので、これは家計から出して貰うことにして、購入。っつうか、『空港にて』って何だよ、こんな短編集聞いたことないよと思いつつ帰宅してからぬるま湯に浸かって半身浴しながらぽちぽち読んでいたのですが、あとでウチの相方が「だってコレ、出てるじゃん!」と私の本棚の中から村上の『どこにでもある場所とどこにもいない私』というハードカバーを取り出してきたのでした。これは2003年春に出た短編集。

.....同じ内容です。どうしてタイトルを変えたのだろう。読んでて思い出せなかったのもどうかしてたが(汗)、いろいろと疲れ切ってて眠かったから(言い訳)
「どこにでもある場所とどこにもいない私」って、とてもいいタイトルじゃないかと思うのですけど。まさか文春が読者のこういうミステイクを狙ってやったなんてことはなかろうが....  
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April 11, 2005

予想外の予定調和。

『半島を出よ』村上龍。
終結、こういう予定調和に落ち着くのだとは思ってもみなかった。高村薫の『レディ・ジョーカー』を思い出す。ヒロイズムを描こうとしたのではないと思うのだけど。
つっこんだエントリはおいおい書いてゆきます。

YADOKUGAERU.先日TV番組『情熱大陸』で装丁家鈴木成一が取り上げられていて知っている方も多いでしょうが、タイトルの書体が素晴らしい。平成明朝あたりをアウトライン化してイラストレーターでいじっているのでしょうか。読み終わって、思い切り太い明朝でもよかったんじゃないかと思ったのですが、不思議にセンシティブで懐かしい感じが加味されてます。あるいはそれは、昭和初期の地方を彷彿とさせる北朝鮮の土地の描写に対する印象から作り上げたものかもしれないですね。


画像はある意味この小説の象徴ともいえる、ヤドクガエルの一種。
美しいカエルです。  
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March 28, 2005

『その名にちなんで』ジュンパ・ラヒリ。

3a0cc30f.jpg日常の食事のこととか調度品のこととか身の回りの物、部屋の様子など、その描写は淡々として、徹底してミニマル。ドラマを意識せずして静かに豊饒のドラマが積み重ねられてゆきます。ポール・オースターが大河ドラマを描いたらこうなるのかな。
ほんっとにうまいと思います。ベンガル人であることにこだわっているわけでもないのだろうけど、自らのアイデンティティを確立してさえいればただつらつらと素直にありのままを綴るだけでこんな豊饒が描けるのですね。

なんだろうな、最近ずっとレコードでジョアン・ピリスの音を探したりしているのだけど(中古レコードで。70年代から80年代にかけてのが探せば見つかるはずなのだけど...ないですねー)、いつか彼女の音を流しっぱなしにしながらまた読み返してしまうだろう一冊でした。  
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March 13, 2005

村上龍新作。

某図書館からの情報で3月24日に幻冬舎から村上龍の書き下ろし小説『半島を出よ。そして島へ渡れ』が刊行されることになっていたようですが、3月7日のJMMで「あと1日で『半島を出よ』がすべて著者の手を離れる」と述懐しています。
どうやらタイトルが変わったようですね。おまけにこのタイミングだったら今月発行なんて無理でしょう。4月のうちに出ればファンとしては良しとしましょう。

hantou.jpg最初このタイトルを知ったときは『ヒュウガ・ウイルス』の続編かなと思ったのですが、最近の講演会に行った人の某サイトへの書き込みでは、北朝鮮コマンド対日本革命児の対決、とからしいですので、当たらずとも遠からず、か。
長編ファンには待ちきれない上下2巻です。
楽しみです。  
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March 03, 2005

『理由』宮部みゆき。

ファンタジーノベルとかサスペンス、ミステリー系は滅多に読むことがなくて、出たら必ず読むのは桐野夏生と高村薫ぐらい。この二人をサスペンス作家と一概に言うことはできないと思うけど、少なくとも純文学ではないのでしょうね。高村本人は純文学を主張しているようだけど。

宮部みゆきを読むのは10数年ぶりで、『模倣犯』が出て爆発的に話題になっていた頃も、ああ、なんか騒々しいことになってるなあ、ぐらいにしか受け止めていず、日本映画にもとんと興味が持てなかったので森田の映画が公開されても気を惹かれるものは何もなかったのが事実。
タイミングって、やっぱりありますよね。メインストリームから遠く離れた生活をしていると、どうしてもやっぱり(笑)

で、昨年末大林が映画化したということで(大林は好きではないけど)、ふーん、とか思って、どうしたわけか今回はすっと文庫本を手にとってレジに向かってしまっていたのでした。
なんでだろう.....うん、やっぱりタイミングだよな。
読みたい! と強烈に思ったわけでもなく。

一気に読ませます。澱みも破綻もまったくないです。呆気にとられる筆力。
なんか、クーンツの『ストレンジャーズ』とかマキャモンの諸作品を思い出させます。いや、内容が、ではなく、読ませ方が。
登場人物の数がハンパではないし、700ページ近い長編ですが、丁寧に書き込まれて倦むことはありません。読むに値する、なんておこがましいことは言えないけど、読んで損はしないかな。

ただ、なあ....
高村薫や桐野夏生に浸った経験がある読者には、リアリティに欠けるように感じるかもしれない。とくに、会話の部分において。読まれた方にはなんとなく分かると思うのですが。
好みの問題ではなく。
逆に、高村や桐野の方が、むしろエンタテインメントなのかもしれない。
あるいは地方出身者が関西に長く住んでいる者(私です)が感じる、方言に対しての距離感のせいかもしれない。

映画でのキャストが凄い。松田美由紀、岸部一徳、小林聡美、菅井きん、渡邊えり子、柄本明、山田辰夫(!)、麿赤児、石橋蓮司、立川談志、左時枝、根岸季衣、勝野洋....
カメオ出演も錚々たるメンツらしいのでDVDが出た暁には是非観ようと思っているのだけど。  
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February 12, 2005

草間弥生展。

kusama.jpg.





2002年に刊行された自伝『無限の網』のなかで草間はこう述べている。


  あたまのなかにはあれもやりたい、これもやりたいというさまざまな
想いがあって、それが順番もなくウワーッと動き回っている。そして、
限られた時間の中でそれらをひとつひとつ具現化していくことしかない。
  この頃は、ものごとに夢中になればなるほど、月日の経つのがジェット
機のように感じられる。一日一日が、これほど貴重なものに思えるとい
うことは、年をとってきたからである。私は十代の頃から、月日の経つ
のをくやしがって、気があせるほどにも自分の不勉強を責めた。
  十代の頃のあわただしさに比べて、今は何ということだろう。茫然とし
てしまうくらい、未来の時間の重みがひしひしと感じられ、芸術の展望
の大きさに胸のつまる思いがする。時よ、待ってくれ。私はもっとよい
仕事がしたいのだ。もっと表現したいことが、絵や彫刻の中にいっぱい
あるのだ。なのに時は秒刻をきざみ、地球は寸時も廻ることを止めはし
ない。


今年76歳。遠い人だ。

ただ私たち凡人でも、こんな気持ちは分からないでもない。ただ焦るばかりで何も手につかないか、その思いのままにひたすら行為し続けるか、そこにはっきりした違いがあるだけで。
1985年刊行の『クリストファー男娼窟』のラストに表現される光景は、彼女のあらゆる活動の、ある意味原点であるような気がしてならない。


  彼女の息は止まった。やっぱり、肉体は空間から消失していた。ヤン
  ニーはバルコニーの手すりにかけよって、下界を見下ろした。
   ミルク色の靄の中にひとつ。黒い点が落ちていく。
   点は見る見る小さく、一層小粒になって、靄に吸い込まれて見えな
  くなっていく。
   すると血のような真紅の果実を啄んでいた黒い烏たちが、一せいに
  空中に舞い上がると、天国を背にして輪をえがき地をめがけて黒点を
  追っていった。
  
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January 21, 2005

『東京ファイティングキッズ』覚書。

内田樹、平川克美。


胎児は体内では母親からへその緒を通じて酸素を供給されているが、産道をくぐり抜けてからは肺呼吸に切り替える。この二つの異なる呼吸システムの切り替えのインターバルにおいて(何分間か何十秒間か)胎児はどちらのシステムにも依存しない「酸欠状態」を生き延びなければならない。
ある知的なフレームワークから別の知的フレームワークへの過渡も、構造的には胎児の呼吸システムの切り替えと似ている。過渡期には、どちらのシステムにも依存することのできない致命的な「酸欠」状態が必ず介在する。
あまり問題にする人はいないけれど、この「どちらのシステムにも依存できない酸欠状態」をどおう生き延びるかというのは、人間の知的成熟にとってかなり重要な問題だと思う。
私はこの「酸欠状態を息を詰めて走り抜ける力」を「知的肺活量」と呼んでいる。(P13)


ぼくたちもまた「飢餓感」を発条(バネ)として生きていました。けれどもこの「飢餓感」は物理的、肉体的な「飢餓感」ではなく、物理的飢餓感からの解放によって失われてゆくであろう精神の緊張や高揚に対する「飢餓感」といったねじれた飢餓とでもいうべきものであったように思います。
つまちぼくたちは肉体的な飢餓感が失われていくという時代にあって、自分自身を消費することで精神的飢餓感を絶えず「再生産」する必要があったのかもしれません。(P20)


K-1のようなリアルファイト系の体術の場合、相手の打撃をもろに食らうという局面があります。そういう危機的状況においては、身体感受性を最大化して、危機に応じることが必要なわけですが、それだと同時に痛覚も最大化してしまう。全身の感覚が細胞レベルまで活性化しているときというのは、痛みも最大化するというのがことの道理ですから。
そのアポリア(難問)をどう解決するのですか?ということを武蔵さんに会ったとき、まっさきに質問したのです。
武蔵さんは即答してくれました。
それは「打たれたときは、それを忘れて、二つ先のパンチが相手にヒットしているときの感じ」を想定して、それを現在だと思う、というものでした。
つまり、相手に打たれた体感を「過ぎ去ってしまった」時間帯に繰り込んでしまうわけです。
だから、どこのどの部位にどういう種類の打撃が加えられて、どの程度のダメージを受けたか、というデータはすべてはっきりと分かっている。けれども、それはもう「過去の出来事」なので、切実なリアリティはない。リアルなのは「まだ到来していない、ノックアウトパンチが相手の顔面にヒットしている未来」の体感の方なのです。
そして、そのクリアカットな輪郭をもつ「未来の体感」にむけて、「鋳型」に流れ込む溶けた鉄のように、すべての身体部位は精密に無駄なく滑らかに統御されてゆくわけです。(P63)

  
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